京奈和自動車道かつらぎ西IC・SAに道の駅
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    和泉葛城山脈の葛城修験道と京奈和自動車道

 役小角(えんのおづぬ)は、舒明天皇6年(634)に奈良県御所市茅原の地に生まれました。現在、誕生所に建つ茅原山吉祥草寺には、役行者産湯の井戸も残されています。
 7世紀の頃、役小角、後の神変大菩薩は和泉葛城山脈を修行の場とした修験道を開き超能力、つまり験力を得ることとなりました。
21世紀の今、葛城修験道に並行して、すぐその山裾に京奈和自動車道が敷かれました。

 京奈和自動車道のその南には南海道、JR和歌山線、国道24R(大和街道)、が並行し、その南側には水量が豊富で勾配の緩い紀の川が流れています。

    堀越癪観音・・・・日本遺産に登録されました

 役小角は腹痛の母親の平癒に観音様を彫り祈願しました。その十一面観音を本尊秘仏としている堀越癪観音です。

    丹生都比売神社と葛城修験道
 
 葛城修験の行者は毎年5月4日天野の丹生都比売神社に集まり、丹生明神のご神体を笈に移し加太へと出立します。友ケ島より犬鳴山を越え大和の二上山までの二十八宿を修行して、6月14日天野に帰り、18日御神体を神社に還る行事が天慶3年(940)から江戸時代まで毎年行われていました。これが丹生都比売神社の神還祭です。
 和泉葛城山脈の尾根を歩くダイヤモンドトレイル(ダイトレ)と呼ばれるハイキングコースが葛城修験道と重なっています。

   伊都観光物産センター(有) 謹製

    堀越癪観音御用達
 
  ハイキングの体力回復に非常食となるチョコレートが現在版ならば、お餅は修験者(山伏)の体力・験力を得る常備食だったことでしょう。
 普通の餅はすぐ硬くなりますが、餅つきのときに食用油を加えると、柔らかさを
数日保つことができます。あまり知られていない「技」ですよね。
 いつの頃からか油分のあるバターを入れることで風味の良い餅ができたのでした。伊都観光物産センター(有)は堀越癪観音の「技」をいただきました。

  バター餅を修験道に因んで験力餅と名づけました。
  ほのかなバターの香りと元気のビタミン・イノシトール配合、
  柔らかさを保つ験力餅をハイキングンのお供としてもご愛顧ください。

     (焼かずにお召し上がりください)
 

 
      南紀とは南海道にある紀伊国

 旅行雑誌や観光案内で南紀和歌山という言葉をみることがあります。南紀和歌山」の南紀とはどういう意味なのでしょうか。?
 和歌山県は昔、紀伊国と呼ばれていました。そして和歌山県は本州の南にあるから南紀と呼ばれたと考える人がいますが、それは違います。
 南紀とは、南海道にある紀伊国という意味で呼ばれていたのです。それでは南海道とはどういうものなのでしょうか?。
 政治を行うために分けた区画を行政区画と言いますが、その一つが国です。そしてその国々をまとめた各地方を区画して道(どう)と呼びました。大宝律令が制定された701(大宝元)年以降、地方行政区画の名前は道・国・郡・里(715年以降は郷といいます)の順に区画割がされていました。私たちが今、手紙を書いたりする時に、都道府県・市(または郡)・町・村という順に書くのと同じです。ですから今の都道府県の上位に地方の名前として道がありました。道は当時の都があった大和国周辺の国々を畿内、そして各地方を反時計回りに東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道と名付けられ、一つの畿内と七つの道8つに分けられていました。



    葛城修験について

 大峰山と並ぶ修験道の聖地・葛城山は、大阪・和歌山県境を東西に連なる和泉山脈から北上して奈良・大阪県境の金剛山脈へと連なる峰々の総称です。この山系には修験道の開祖・役行者が法華経八巻二十八品を埋納したとの伝承による経塚があり、葛城二十八宿と呼ばれています。西は和歌山県加太町の沖に浮かぶ友が島(序品経塚)から犬鳴山、和泉葛城山、牛滝山、岩湧山を経て金剛山頂に至り、さらに北上して大和葛城山から二上山、そして大和川沿いの亀の瀬に至るまで各所に経塚や行場が連なっています。また、このルートに沿って葛城修験の中心寺院である犬鳴山七宝瀧寺、金剛山転法輪寺をはじめ根来寺、粉河寺、槇尾山施福寺、當麻寺など多数の霊場寺院や神社があります。
     南海道(古代官道)の様子

 古代の行政区画である南海道は紀伊・淡路と四国の阿波・伊予・土佐の6つの国で構成されていました。それどれの国の役所を国府と呼び、そこには都で任命された国司と呼ばれる役人が赴任してきました。

 南海道の国に派遣された著名な国司としては、菅原道真、紀貫之などの人がいます。菅原道真は886(仁和2)年から890年、任期である4年間を讃岐国府(香川県坂出市)に赴任していました。

「男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり・・」で始まる「土佐日記」は紀貫之が土佐の国に国司として派遣され都に帰る時の出来事を記したものです。

 国府へは都からの伝達が必要ですし、地方の役所である国府から都への連絡が必要でした。また、貴族が国府へ赴任、帰郷するためなどに道路の整備が急務でした。
そのために、国家では都と地方の国々を結ぶための道を作りました。その道は、大きな行政区画である道の名前がそのまま用いられていました。

ですから七道は行政区画の名前であるとともに道路の名前にもなりました。 国家が作り運営した道ですので官道です。今の国道にあたるものでしょう。
 中央から国府へ、または国府から中央への伝達は役使という役目の人が任命されて都と国府を結ぶ伝達機関としての役割を果たしていました。役使は伝達のために馬を利用して各国々に赴きます。
 そのため、各国々には馬を常備しておく駅家(うまや)という施設が設けられました。

 駅家は周りを築地などで囲み駅門を入った築地内に馬具や食料を保管するための蔵や仕事のための事務室・駅使の休息・宿泊・飲食施設などの家屋や馬をつなぐ厩舎などがあったのでしょう。近年の発掘調査で少しづつですが駅家の構造も解るようになってきています。

  (以上「流域の歴史・道・人 〜紀の川〜」・・より抜粋)