弘法大師が真言密教の根本道場として開創された高野山。高野山に参拝する道は古来高野七口と称して七つの街道を経て登山しました。そのなかでも高野街道西口の町石道は表参道として大師をはじめ天皇や貴族、庶民が利用した道です。九度山の慈尊院から高野山奥の院御廟まで約24kmの道のりには、1町(109m)おきに216本の町石が立ち並んでいます。
 現在では電車や車で高野山に参拝しますが、この町石道はハイキングコースとして癒しの道・祈りの道となっています。
町石道をガイドしましょう
マンダラウオーク写真集


157町石、かつらぎ町が見える標高400m

町石道と勅使坂(三谷坂)地図
 JR妙寺駅を起点に、南100mの平和祈念公園・地蔵尊から三谷橋をわたり丹生酒殿神社より天野大社参道の勅使坂(三谷坂)を登り天野大社へ。
 天野大社からは二ツ鳥居に向かい町石道に入って高野山を目指します。
 このルートを平成の町石道とします。
 つまり、新たなハイキングコースに町石を建立します。その原資はハイカーに小石を千円か5百円程度で買っていただきます。小石に家内安全・世界平和など願い事を書き、町石の建立の際にその小石を埋めます、または平和祈念像の下に保管します。
 1.2年は木製の卒塔婆でいいでしょう。頃を見計らって石運びイベントを企画します。
 「紀伊國名所図会」のように紀ノ川から町石を人力で運んで建立・祈祷をしましょう。
 平和地蔵尊が町のシンボル、高野山へのハイキング起点とします。
 21世紀は3K(健康・環境・心)の時代です。地域の振興発展を願う住民、商工業者、健康を願うハイカーの協力でやってみましょう。
 天野はかつらぎ町の誇る観光地です。
 町石道・丹生都比売神社はユネスコの世界文化遺産として暫定登録されています。
 2004年6月、世界遺産登録の運動の一環としても展開しましょう。

   かつらぎ町のシンボル平和地蔵尊



159町石付近の町石道
フィトンチッドをいっぱい浴びて

平成の町石道ウオーク

(町石の建立)
 文永2年(1265)高野山の覚教が山麓の政所から奥の院までの墾路(はりみち)に210余基の石造町卒都婆建立を発願した。従来の木造卒都婆は風雨に朽損し、道標の役を果たせない状態になっていた。弘安8年(1285年)10月、高さ1丈1尺(3.3m)幅1尺(30cm)余の町石、山下180本、山上37本が完成され、覚教は、それぞれ胎蔵界180尊、金剛界37尊に比して開眼供養を行ったが、その敬白文の中で北条政子・時頼・時宗・松下禅尼の知識勧進奉加を謝するとともに、安達景盛・義景・泰盛三代の協力によることを強調している。
 発願に応じもっとも力を尽くした
泰盛自身は山上の22と25町、山下12と158と159町の石を建立しており曽祖父盛長・祖父景盛・父義景の菩提のため、または文永9年2月に北条義宗に殺された北条時輔ら夭死者の供養のために建てたことがわかる。天皇・将軍はじめ十方施主の二世快楽を祈願しています。人々は1町ごとに手を合わせて登山しました。まさに祈りの道、信仰の道ということができるでしょう。
 町石の建立方法は、まず道を造り、1m位の穴を掘り、全てではありませんが経文が書写された礫石を入れ、その上に直径40cm余りの台石を敷いて固定させてから町石を載せたものと思われます。
 町石は、完成後700年の間に数度の補修で50基ほどが再建された以外は、創建当時のままで立っており、昭和52年7月には国の史跡に指定されました。
二月騒動
 鎌倉幕府八代執権・北条時宗に三歳ちがいの異母兄・北条時輔がおりました。父は五代執権・北条時頼でした。時宗は、御恩奉行・安達泰盛の娘を正室にしていました。
 建長8年(1255)京都の六波羅守護(探題)北方に北条時茂が、南方には文永元年(1264)時輔が任ぜられ、朝廷と西国の監視役を務めていました。当時は北方から執権・連署の候補者を決める慣習でした。
 その頃、名越氏一族の北条光時が弟の時章・教時らと共に将軍頼経と結んで、得宗(家督)の執権時頼に反逆を企てました。時章の子公時も、これに同調しました。この陰謀は露顕し、光時はかろうじて助命されて伊豆へ流されました。幸い時章・教時は咎めを免れましたが、時頼が亡くなったとき時章は出家しました。(寛元4年、1246)
 ところが、時頼の寛大な心で許された教時は、なおも野心を持ち続けていました。教時は、六波羅探題南方の時輔がその地位と処遇に不満を持っていることを知ると、これを巧みに抱き込んで執権時宗に再び謀反を企みました。
 この情況をいち早く探知した時宗は、文永九年(1272)2月11日、鎌倉名越の北条時章(入道見西)・教時の館を、大蔵寄季が率いる討手に急襲させました。たちまち教時は誅殺され、あわれにも謀反に加担しなかった時章も大混乱の中であやまって殺されました。一門の長老を殺害した責任を問われて、大蔵頼季は処刑されました。
 時をおかず、幕府は早馬を六波羅北方の役所へ遣わし時宗の命令を伝えました。直ちに2月15日、新守護の北条義宗は多数の軍兵をもって、六波羅南方の時輔の邸を奇襲しました。不意を突かれた時輔方は必死に防戦しましたが、勝運むなしくついに無残な最期となりました。時輔は25歳でした。
 父時頼の愛子であった時輔と時宗のあまりにも悲しい運命…二月騒動でありました。
時宗の義父安達泰盛は、鎌倉と京都で亡くなった御家人郎党の菩提を弔うために、施主となって158町石と159町石の供養塔を建立しました。未曾有の国難だった蒙古襲来「文永の役」は、これより2年後の文永11年(1274)10月でした。