奥の院 供養塔 その(2)

   崇源院供養塔・千姫の供養塔・大津籠城戦死者追弔碑


解説は「お市の方」の生涯から始めましょう。

お市の方

  織田信長の妹。聡明な超ベッピンさん。今時の女子アナ風、長身でスタイル抜群。
  時代は下克上、謀略、色仕掛け、政略結婚、なんでもアリの戦国時代。 信長はお市を北近江(滋賀県)の浅井長政に嫁がせ同盟を結ぶ。 素直な心根のお市は長政と相性ぴったり、周りが羨むほど仲睦まじかったという。2人の男の子と 3人の女の子をもうける。長女は茶々、次女はお初、三女は小督(お江与)。
  「戦国一数奇な運命を辿った3姉妹」

 戦国の定め、お市の幸せな生活は長く続かなかった。兄、信長は天下布賦(統一)の野望に、妹の嫁ぎ先の浅井を攻め滅ぼした。未亡人となった市と3姉妹を尾張清洲城引き取られ9年余りを平穏に過ごした。
 信長の死後、秀吉の仲介でお市は柴田勝家と再婚する。その柴田勝家も秀吉に攻められお市も自害。
波乱万丈の生涯は3姉妹のドラマに引き継がれていく。

     

お市の方


長女茶々の娘=お市の孫

 平清盛が義経の母・常盤に思いを寄せたのと同じように、絶対権力者となった太閤秀吉は、お市の方に瓜二つ茶々を側室に。秀吉の子・秀頼を産む。秀頼は大野治長との子といわれるのもうなずける。
ともかく、後継者の母は強い。淀君・淀殿とよばれる。ここでも、政略結婚。秀頼の妻となるのが、小督(お江与)の子、千姫。幼いいとこ同士の結婚。
    
 淀殿は秀吉の死後、関が原の戦いを経て、大坂夏の陣で落城に際して秀頼や大野治長らと共に自害。
 さて、大坂夏の陣は千姫19歳。落城する大坂城から救出され、翌年、本多忠刻と結婚。姫路城に移って播磨姫君と呼ばれるようになる。夫・忠刻とも夫婦仲睦まじく暮らす。穏やかな日々は長続きせず、夫・忠刻、姑・熊姫、実母・江が次々と没するなど不幸が続き、本多家を娘・勝姫と共に出て江戸城に入り、出家して天樹院と号す。出家後は娘と二人で竹橋の邸で暮らす。享年70。
天樹院・千姫の供養塔


三女の小督(お江与)
  NHK大河ドラマでは「お江」

 柴田勝家と母のお市の自害後は豊臣秀吉の元で保護され、秀吉の命により小督は母の姉の子・佐治一成へ嫁ぐ。だが一成が小牧・長久手の戦いで徳川家康に味方したため秀吉の怒りに触れ、一成は秀吉から所領を没収されるとともに離縁させられた。
 
  再び秀吉の命により小督は秀吉の甥・秀勝の元へ嫁が、文禄の役で秀勝は死去。後、家康の三男・秀忠に嫁す。小柄でまじめな性格でその美人。夫の秀忠は家康の死後、徳川2代将軍となる。徳川将軍御台所(正室)で将軍生母となったのは後にも先にも彼女だけ。親族の死、政略や実家の跡継ぎ争いに巻き込まれた前半生とは違い、将軍御台所・将軍生母として安定した後半生を過ごしている。 供養塔は秀忠の次男忠長が母お江与の追善、生家・浅井氏のために建立。高さ6.6m、台石は八畳敷き。高野山の石碑の中で最も高く、大きく「一番石」と呼ばれている。

 

崇源院供養塔


次女お初

 お初は秀吉の計らいにより従兄弟にあたる京極高次と結婚。秀吉の死後に石田三成と徳川家康が対立し京極家は一時、三成側につくが、関ヶ原の戦いでは東軍に属し大津城に籠城し西軍の足止めをした。
これが全滅の大津籠城戦。高次の籠城は徳川家康の「必ず上洛する」という言葉を信じてのものであった。
しかし少勢で奮闘籠城し続けるが落城。関が原の合戦が始まる前日に開城を決定、高次は高野山に退去した。大津城攻めをしていた毛利元康、立花宗茂らは、関ヶ原の大戦には間に合わなかった。このことが東軍を有利に働いたとされている。

 家康は、論功行賞で、大津城に敵軍を引き付けた功績を高く評価し、最終的に開城したことを剃髪してまで詫びてきていた高次に若狭国小浜9万2千石を与えた。その陰には高次の妻お初が、妹のお江与に「西軍の足止め」を夫の2代将軍となる秀忠にアピールを懇願したと伝えられている。
大津籠城戦死者追弔碑

製作続行中
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